十字架の聖パウロ 遣わされたもの

十字架の聖パウロのお祝い日、 会固有のミサの聖書朗読箇所を読んでみると 3つとも 遣わされた人のことが出てきていました。 そのなかで何故か心に残ったのが、第一朗読イザヤ書でした。
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。 彼らは主が輝きを現すために植えられた 正義の樫の木と呼ばれる。
最初さらっと読んだとき「正義の樫の木」というのが 遣わされた者のことだ、と思ってしまったけれど よく読んでみると 「貧しい人・嘆いている人々」= 主が輝きを現すために植えられた 正義の樫の木 と呼ばれる人々であって、 「わたし」はその人々の所に 遣わされた者 なんだ、と。
マルコの福音の箇所では12人の派遣が描かれていて、 遣わされる時には、食物もお金も なにも持っていくな と言われています。 ちょうど同じような箇所が 先週末くらいにルカ福音でありましたが、 その時の神父様のお話しを思い出しました。
食べ物も金も、なにも持っていくな。というのは 自分たちがユダヤ人であること、 選ばれた民であるという、そういう意識を 置いてゆけ。 福音宣教には、福音だけ持ってゆけばよい。
あぁ、そういうことなのか と思って とても印象に残りました。
そうして重ね合わせて見ると、 「わたし」が主役 というか目的では無いんだ、と 遣わされる者とは、「わたし」を遣わしたかた と、 遣わしたかた が、届けたい人の間にある者で、 貧しい人、嘆いている人々が、遣わしたかた の目的なんだ と思いました。 (なんかめちゃややこしい文章;分かりにくくてゴメンナサイ)
で、十字架の聖パウロは そういう人だったんだろうなと思うのです。 「自分」ではなくイエスを、イエスを通して表された神の愛を 伝えるために生きた人だと。 そしてそれを受け取った人々が、 また遣わされる者 になって出かけていく…
私たちもそうして受け取り、伝えていく者になる そうでありたいと 願い 祈ります。
