In the Hands of the Potter
今日のミサの第一朗読、エレミヤ18・1-6から
ー わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、 それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、 わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。 見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、 イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。ー
今日の神父さまのお話しを聞いて、思ったことなど… というかどんなお話しだったのか書こうよ。と言われそうですが、 メモの断片から再構築できそうにもないので; 感想で、なにとぞ…
神さまにつくられたもの、器として、もう私はあるのではなくて まだ私は神さまの手の中にある、つくられている 途中なんだ。 それが、神の作品 ということなんだ。 それは生きている間ずっと、最後まで そうなんだ。
私はろくろを回したことは残念ながら無くて、 (きっとやったことある人は、もっと違った感覚を持てるだろうな。と思う ) 映像とかでしか見たことがないけれど、 その手の中で、粘土は生きているように姿をかえてゆく。
そこから離れてしまえば、乾燥して 固くなって、 なめらかにカタチをかえることは できない。 自分でカタチをかえることはできない。
私の カタチ まだ決まっていない 神さまの手の中で どんな器になるか わからない、最後まで。
その手の中に信頼し、感謝してゆくことができるだろうか…