7月、キリストの御血

5月はマリア様、6月は みこころ、と同じように 7月は「イエス・キリストの尊い御血」に捧げられた月ですね
日本では聖母月とかと比べると、メジャーではないみたいですが、 なんせ ちょっと検索してみようと思いましたら、 何年か前の自分のblogが出てきたくらい… そうじゃないんだよなぁ、と思いながら読みましたけども(笑; こんなこと考えてたのか、と面白い体験でした。
御受難会では7月1日を会固有の祝日としてお祝いしています。
キリストは・・・・雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、 ただ一度聖所に入って永遠のあがないを成し遂げられたのです。 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、 汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、 その身を清めるならば、まして、永遠の〝霊〟によって、 ご自身をきずのないものとして神にささげられたキリストの血は、 わたしたちの良心を死んだわざから清めて、 生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(ヘブライ9・11-14)
教皇ベネディクト16世のことばがありましたので 気になったところを抜粋させて頂いています。(自分用メモとも言う…)
イエスは杯を弟子たちに渡していわれます。 「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」 (マタイ26・28)実際に、鞭打ちから、十字架上で死去した後、 脇腹を刺し貫かれるまで、キリストはご自分の血を流し尽くしました。 キリストはすべての人のあがないのために犠牲としてささげられた小羊だからです。
キリストの血は人類に対する神の忠実な愛の保証です。 十字架につけられたかたの傷を仰ぎ見るとき、 すべての人は、たとえどれほどみじめな道徳的状態にあっても、こういうことができます。 神はわたしを見捨てられませんでした。 神はわたしを愛し、わたしのためにいのちをささげてくださいました。 こうしてすべての人は再び希望を見いだすことができます。
読みながら思い出したのは、 これはたぶん6月30日の福音で、7月直前なのだけれど 出血の止まらない女性と、ヤイロの娘のお話しのところ。
何をしても治らなかった、もう娘は死んでしまった、と皆が言う。 それでも イエスは「死んでいない」と言ってくださる 手をとって 声をかけて、起き上がらせてくださる
どんなに何もみえなくても、イエスへの希望に賭けた 信じる想いがあったんじゃないか、と。
ちょうどこの前の使徒トマスの祝日にも繋がっているような気がします。 十字架につけられたかたを仰ぎ見るために、 その足元に立ち続けることができたら、と祈ります。