顔を見りゃ わかるんじゃもん。

2020年11月26日

前に、海外の讃美歌の話しを少ししましたが、                       いろいろ聞いてるとき、すごく好きな曲があったんですね。                 メロディもすぐ覚えられるし、歌詞もイイな~と。                     「In Christ Alone」という曲。歌ってみたいなーと思いながら和訳を見てたんですが、     途中で、エッ⁉ と止まってしまった、、                         ー イエズスは神の怒りを宥めるために…-                        という歌詞が、どうしても受け入れにくくて。                       でもすごく曲も好きだし、他の歌詞は悪くないし、、                    そこだけ飛ばして歌ってしまうか、とか思ったんですが、                  やっぱり、なんか ね、でそのままになってしまいました。

それはもうだいぶ前のことなんですけれど、                                        今日の福音、そして昨日とさらに一昨日の第一朗読には「神の怒り」という言葉がありました。 さすがに3日も続けて出てくると、立ち止まらないといけない気がして、           何に対する怒りなのかな、、                               神の怒りという言葉の中に、何を見ることができるんだろうか、とか。            でもやっぱりよく分からないんですよね~、、 

そんなこんなで、今日たまたま何か読みたい本ないかなーと                 いろんな本を手に取っちゃパラパラと見てたんですが、                   こんな言葉が目に入ってきました。

「なんぼ、なぐられたって、こわいことは、ありゃせんよ。                 先生の顔を見りゃ、ほんとうに怒っとるか、どうかわかるんじゃもん」

ある学校の先生(女性)の ノンフィクションの物語なんですが                このちょっと前の文章を見てみると、

ー心に何のわだかまりもなく、固い いがぐり頭に、思いきり手をおろせるのは、       教師と生徒が親しみと信頼をもっていた頃の学校でしか出来ないことであった。-

なんかびっくりしてしまった。                              そう、でもそうなんですよね、誰かが自分のために本気で怒ってくれる時って、        それが分かる時って、すごいことだなと思う。

イエスさまも、こんな想いだったのかなーと、                       こわいこと、ありゃせんよ、だってわかるんじゃもん。                   神の怒りを宥める、ていうのも、神さまの、御父の私たちへの本気の想いを          イエスさまは、その顔を見て、全部わかって、                       受けとめてくれている、ということなのかもしれない。

そういうふうに思えたら、歌えるかな? まだ考え中...

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