降りてこられた かた
今日は、聖マタイ使徒福音記者の祝日。 第一朗読エフェソ4・1-7、11-13 を見て、アレ?と。 昨日の毎日の読書では、エフェソ4・1-13だったのに、 ちょうど真中がすっぱり抜かしてありました。 どうしてなんでしょう?
わざわざ無くしてあるのに、良くないかもしれませんが;
そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、 人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、 低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、 もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 (エフェソ4・8-10)
先週の「十字架称賛」と「悲しみの聖母」の祝日は 韓国にいまして、ちょっと書くことができなかったので そのとき思ったことも合わせてメモしてゆきます。
十字架称賛のときに読まれた 民数記で 炎の蛇に咬まれた人々は、 旗竿の青銅の蛇を見上げます。いのちを得るために。
旗竿の蛇を見上げるのは、どんなときなんだろう 私がイエスの十字架を見上げるのは、どんなときなんだろう
十字架のイエスを「見上げる」のは普通だし、 助けを、希望を求めてそうするのは、とても自然なことだと思った。
けれど、そのとき読んでいた本の中に、 あの有名な フィリピ2・6-8 が出てきて
キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、 それも十字架の死に至るまで従順でした。
イエスは人間と同じものになられた 十字架の死に至るまでの、人間として現れてくださった
マリア様は人間としてのイエスをずっと見てこられた、 そして最後にマリア様が腕の中にしっかり抱きしめているのは、 理不尽で、答えの無い、悲しみそのもの なんじゃないか?
離さない、目をそらせない、なにを見ている? すぐに見えるものじゃない、だから見つめ続ける。 マリア様が見ているもの、目線?視点 というのか、、 少し考えていました。
十字架を、イエスを見上げるのは 良い。 でも 今、苦しいとき、自分の問題や、 何故 と問いたくなるようなこと、 そのなかに、イエスを見つめようとする。 それも必要なのかもしれない。