追憶と待望のとき
待降節が始まりましたね、 「教会歴と聖書朗読」にはこう書いてありました。
待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する 降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、 週末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。 この2つの理由から待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる (典礼暦年と典礼暦に関する一般原則 39)
クリスマス、神さまが人となって生まれ落ちた その夜 ありえないというか、私たちの考えを遥かに超えた出来事。 大きなよろこびの訪れのとき、 なのに 第2の来臨は、終末、最後の審判、という どこか緊張感を持つ響きに、ちょっとたじろいでしまう… でもきっと同じように、私の考えも及びもつかないような出来事で、 第1の来臨をも超える、よろこびの時のはずなんだ、、そうでしょう?
私は最近、期待するということを どこかに忘れてしまっていたような気がする。 うーん… 人に自分に期待することはやめてもいいけれど、 神さまに期待することをやめてしまったら、どうするんだろう 期待しないなら、よろこびも無いんじゃないかなぁ。 なんてゆうのか、この期待は信頼とあわさっているのだと思う 救いは神さまだけから来る、、 だから 期待と望みと信頼をもって見つめ続けることができるのかな…
教会の一年は、追憶し、待望を深めていく歩みから始まるんだなぁ、と ちょっと感慨深く思いながら。