起きよ 光りを放て

2024年01月06日

起きよ、光を放て。                                             あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。                              見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。                                 しかし、あなたの上には主が輝き出で                                         主の栄光があなたの上に現れる。 

主の公現 第一朗読、イザヤ60・1-6より                                        この「主の公現」に、いろいろ考えていたのですが                                  なんだか気になる言葉。と、ずっと残っていたのが                                   いちばん出だしの『起きよ、光りを放て。』でした。

占星術の学者たちは 星をみつけ、                                       それが王が現れたしるし として受け取り、                                       そのかたを拝みに行く、会いに行く、と決めた                                      どうしてなんだろう。そんな遠くから、                                         どんな気持ちだったんだろう。

ついに星が止まったときとき、                                         学者たちはその星を見て喜びにあふれた。と、                                       確証の無いことを、ただ信じて旅してきた                                      星が見えなくなったときも…

そこで目にした光景、幼子の姿、                                         予想していたこととは 違っていただろう                                        でも、ひざまずいて、ひれ伏して、拝んだ 礼拝した。                                    ささげものをした。                                                目の前に現れたことを、否定しなかった。                                        その前に ひれ伏した、自分を小さくした。

神さまが 私たちにあらわそうとすることと、                                          自分が予想して、実は期待していることと違ったとき  どうするだろう?                           

自分の思い描くものから はみ出たものは、無かったことにする?                             自分のワクを捨てて、壊されて、ただ見つめ 礼拝することができる? 

教皇フランシスコの言葉によると、                                       「拝む」とは、信仰が要求すること、                                    「拝むこと」は自分自身への隷属という、最も重い隷属から解放され、                      自分ではなく、神を中心に据えることである。                                              とのこと。

それが、起きて光を放つ。ということなのかもしれない。                               (なんだか言葉だけでみると 逆みたいでオモシロい)

いただいた、照らされた光りによって                                          私たちのを通して、溢れてゆくように…                                   

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