誰の秤?
あなたがたの父が憐れみ深いように、 あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 「人を裁くな。 そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。 人を罪人だと決めるな。 そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。 赦しなさい。 そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。 そうすれば、あなたがたにも与えられる。 押し入れ、揺すり入れ、 あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。 あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
今日の福音、ルカ6・36-38
憐れみ深い者になる、とはどういうことだろう。
誰から、裁かれないのか?
誰から、罪人だと言われないのか?
誰から、赦される のか?
誰から、与えられる のか?
自分の秤で量り返される、、 「押し入れ、揺すりいれ、あふれるほど 」 そんな秤を自分が持っているとは思えない。
自分の秤を使っているうちは、たどり着けないみたい。
あわれみ深い者になる、、 「 父が 憐れみ深い ように 」なのだ、
御父の憐みの深さ、感じたことがあるか? 御父の憐み深さを知り、満たされていくことで 近づいてゆくことが できるのかもしれない・・・