見えない目、聞こえない耳。

晩の祈りが始まった時には ツクツクホーシの合唱だったのに、 ハッと気付くといつの間にか、涼しげな虫の声にかわっている。 いつ 鳴き止んで、いつ鳴き始めるんだろう。 同時に鳴いてるときもあるんだろうか、、 陽が落ちる前の夕方と夜の境目、曖昧な 意識しようとしても捉えられないような、そんな時間。 私たちの祈りも そんな中を縫うように、 みんなで歌い 祈る声から、沈黙の祈りへと落ちてゆく… なんて思ったり
9月のカトリック時報を読んでいると、 難民移住者の方々についての記事の最後の文に考えさせられました。
「性格が憎たらしいからこうなった。身から出た錆だ」と世間が嫌うことと、 その人の困窮ぶりを救うこととは別問題です。 私たちには「自分が助ける相手に善人であるよう要求する欲」があることを しっておくべきだと思いました。
今日のヤコブの手紙のように、自分の正しさを信じている、 自分の下す判断こそが、正しいと。 一番よく聞こえるのは自分の声、一番よく見えないのが 自分の姿かもしれないな、と
イエズスのことを思い出したい、と思う。 いったい誰のために、どんな人々のために十字架を受けられたのか。
神は来て、あなたたちを救われる。 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。(イザヤ35・4-7a)
その一人ひとりの中に イエズスを見、聞くことができますように。