マリアは何処に…

今日は聖母の被昇天の祭日でした。 マリア様が体も魂も栄光のうちに天に上げられ、 天の元后、天の女王とよばれ、ちょっときらびやかなイメージのあるこの祭日に マリア様が、どこか少し遠い存在になってしまったように感じるでしょうか 天に上げられる前と後、なにが変わったのでしょう。
今年もらったノヴェナのカードにあった言葉、 ーマリアは天に上げられた後も、この救いをもたらす務めを放棄することなく・・・
と もうひとつ、本にあった心に留まったところ、 『マリアは「わたしは主のはしためです」と、扉をひらくように まったく単純に答えます。 マリアが世界を救ったのは愛によってでした。 扉をひらくようにして、または水がめを運ぶようにして、、 そして、その後でもマリアは水を汲みに行きました。まったく単純に。』
被昇天は最後に与えられた 素晴らしいことですが、 マリア様の生涯のなかで、これまでに起こったことをどんなふうに歩んでこられたかを見つめるとき、 なにも変わってはおられない。と感じられるように思います。
お告げを受けた後、エリザベトのところへ出かけて行ったように 十字架のもとでイエスから「これはあなたの子、あなたの母」と託された後、 弟子たちと共にいつも祈っておられたように
ひとつひとつ扉をひらくように、水がめを運ぶように その歩みが、その働きが 止まることは無いのだ、と。
また、今は御父とイエズスと聖霊のうちにおられるマリア様を眺めるなら、 御父の願いも見えるような気がします。
すべての人を 同じようにご自分のそばに呼びたいのだ、と ご自分と一致して欲しいのだ、と すべての人を救いたいのだ、と。
そんな神さまの想いが込められている… だからこそ 私たちに大きな希望を与えてくれる、そんな祭日のように思いました。
最後に、これも引用ですが とてもきれいな言葉だと思ったので、 これで終わりたいと思います。
密かな念祷のなかで、または私たちの心の単純な動きのなかで マリアはすぐそばに、ほとんどイエスと同じように 私たちの心の鼓動と 祈りの情熱の上に身をかがめておられるのです。
私たちの祈りが終わったあとでも マリアを離れずにいましょう。 心のもっとも深い内的な扉を 顔と顔を合わせての出会いを準備する生きた現存の現実に ひらいておきましょう。