神の 怒りについて

2021年02月04日

あ、そうそう  あのしつこく書いてる「in  Christ  alone」ですが、         楽譜あったので、歌っていますよ~                      ちょっと日本語がヘンだとか言われてしまいましたが、             少しずつ歌ってくださってるのを聞くと、うれしいですね。

それで ですね、神さまの怒り  について私の中で落ち着いた次第ですが、          旧約の神の怒りについて考察している本から、             いろいろ考えさせてもらいました。                        最初に心を掴まれたのが、

聖書にそれが書かれている以上、                  我々の好き嫌いから無視してしまうのはよくない。              我々が嫌うのは単なる誤解からであって、               実はたいへんなメッセージが含まれていることだって 考えられます。

ほんとにそうだなーと思って、                    受け入れないで無かったことにしてしまうのは違ったなあ、と。             後は良かったところを、ざっくり抜き書きしていくと、

その怒りは怒りのための怒りではなく、                       民の頭を冷やして いのちの道へと引き戻すための 怒りである。

神の神たるゆえんは、怒ることではなく 救うことだ。              人は怒り散らすこともできよう、しかし神にはそれができない。          「聖なる者」であるから 救いと愛の心を隠すことなくそのまま表す。

(ホセア6・4にある「愛」原語はへセド=親子、友人など                                                                                                          人と人を結ぶきずなのこと)   ヘセドは神と人とを結ぶきずなである。                       荒れ野のイスラエルを「愛(ヘセド)のきずな」で導いた神は               さらに太く強い 愛のきずなを我々に与えた。それがイエスである。

神はイエスを我々に与えて、その愛を隠すことなく示し                「どうしてあなたを捨てることができよう」と語りかける。          十字架は神のこの語りかけである。

その神は、心から怒ることができるほどに                     我々の いのちに無関心ではいられない、慈しみの神なのです。

と、まあこんな感じです。                        イエスが神の怒りを治める とか宥めるため、というのは         なんていうか、イエズスが神さまの怒りの犠牲になった。みたいな       そんな感じで ひっかかっていましたが、                    ちょっと違うと分かって? 感じてきたように思います。

離れていく私たちへの神さまのこころ、葛藤というか、               捨てることも、滅ぼすことも、断ち切ることもできない                私たちへの思い。                              それが、イエスさまの中に全部あったのかな、と                神さまは、イエズスは、いつもただ曖昧な笑みを浮かべているような、      そんなのじゃあないんだ。                         それがなんだか嬉しいんです。                


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