神の 怒りについて
あ、そうそう あのしつこく書いてる「in Christ alone」ですが、 楽譜あったので、歌っていますよ~ ちょっと日本語がヘンだとか言われてしまいましたが、 少しずつ歌ってくださってるのを聞くと、うれしいですね。
それで ですね、神さまの怒り について私の中で落ち着いた次第ですが、 旧約の神の怒りについて考察している本から、 いろいろ考えさせてもらいました。 最初に心を掴まれたのが、
聖書にそれが書かれている以上、 我々の好き嫌いから無視してしまうのはよくない。 我々が嫌うのは単なる誤解からであって、 実はたいへんなメッセージが含まれていることだって 考えられます。
ほんとにそうだなーと思って、 受け入れないで無かったことにしてしまうのは違ったなあ、と。 後は良かったところを、ざっくり抜き書きしていくと、
その怒りは怒りのための怒りではなく、 民の頭を冷やして いのちの道へと引き戻すための 怒りである。
神の神たるゆえんは、怒ることではなく 救うことだ。 人は怒り散らすこともできよう、しかし神にはそれができない。 「聖なる者」であるから 救いと愛の心を隠すことなくそのまま表す。
(ホセア6・4にある「愛」原語はへセド=親子、友人など 人と人を結ぶきずなのこと) ヘセドは神と人とを結ぶきずなである。 荒れ野のイスラエルを「愛(ヘセド)のきずな」で導いた神は さらに太く強い 愛のきずなを我々に与えた。それがイエスである。
神はイエスを我々に与えて、その愛を隠すことなく示し 「どうしてあなたを捨てることができよう」と語りかける。 十字架は神のこの語りかけである。
その神は、心から怒ることができるほどに 我々の いのちに無関心ではいられない、慈しみの神なのです。
と、まあこんな感じです。 イエスが神の怒りを治める とか宥めるため、というのは なんていうか、イエズスが神さまの怒りの犠牲になった。みたいな そんな感じで ひっかかっていましたが、 ちょっと違うと分かって? 感じてきたように思います。
離れていく私たちへの神さまのこころ、葛藤というか、 捨てることも、滅ぼすことも、断ち切ることもできない 私たちへの思い。 それが、イエスさまの中に全部あったのかな、と 神さまは、イエズスは、いつもただ曖昧な笑みを浮かべているような、 そんなのじゃあないんだ。 それがなんだか嬉しいんです。