神の言葉の「宿屋」

こんにちは。 先日、ほんとに一瞬 ちらっとだけ雪が降っているのを見た! と思うのですが(あんまり一瞬だったのでちょっと自信がないんです…(笑) 今年は雪景色、どうでしょうね?
1月18日~25日は、キリスト教一致週間です。 画像は今年の小冊子の表紙です。テーマは
『あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい』 (ルカ10・27)
このあと「私の隣人とはだれか」という律法学者の問いに答えて 善きサマリア人のたとえ をイエスが話されるんですよね。
なので冊子でもそのたとえに触れているのですが、読んでいると …神のことば の「宿屋」に導く… という文があったのです。
いま食堂で、教皇ベネディクト16世 ヨゼフ・ラッツィンガーの 「ナザレのイエス」が読まれているのですが、 その中で少し前に、ちょうど「善きサマリア人のたとえ」がありました。
サマリア人はキリストの象徴とされていて、 …彼は私たちを宿屋へ、すなわち教会へ連れて行き… という文に驚いたのを覚えています。
このたとえを何度も読んできたけれど、 「宿屋」に焦点を当てたことが無かったので、とても印象的でした。
その人を連れて行って、預け、受け入れて 面倒をみてくれる、そんな宿屋。 深い信頼と、関係がなければ出来ないんじゃないかな。
そんなふうに 私は思っているだろうか そんなふうに、深く信頼しているだろうか
そう 出来たら、と思っても その一歩を踏み出すのは むずかしい。 サマリア人が 踏み出せたのは、 その「宿屋」を持っていたから なのかもしれない。