神さまの なされること

このまえ、朝から なんだか寒くて もう さむい、さむーい!とギュウギュウ(?)していたのですが 掃除しなくちゃー と思って、上着来て外に出ると すごい暖かかった… これが修道院あるある、という(笑)
今週は第二朗読で イザヤ書が読まれてますけれど、 ずっと心の片隅に残っていた言葉がありました。
彼らはこれを見て、悟り 互いに気づかせ、目覚めさせる 主の御手がこれを成し遂げ イスラエルの聖なる神がこれを想像されたことを。 (イザヤ41・20)
こう一文だけ抜き出したりするのは、あんまり良くないのかもしれないですけど; 「互いに気づかせ、目覚めさせる」というのが どういうコトなんだろうなぁ、と思っていました。
そんなところで、昨日の福音を読みながら考えていました。
今の時代を何にたとえたらよいか。 広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、 『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、 『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。 しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」 (マタイ11・16-19 )
自分の願っていること、期待すること とは違うことが 起こっているとき なにを思うのだろうか? その人のうちに、私のうちに、あること 起こっていること すべてに神さまの手が働いていることに 気づくことができたら…
救いの出来事は、暗い夜に、旅の途中に、寒い馬小屋に、 幼子の姿で、思いもよらないとろに やってくる。
それを見て、思てたんとちがう となってもいい。 驚いてもいい、立ち止まっても いい、と思う。
私自身も神さまの御手によって作られたものなんだ、と 救いの出来事のうちにあるんだと、 そんなふうに感じられるときが 来るかもしれない。
この時期によく思い出す、私の好きな言葉で今日は終わりたいと思います。 ヘンリー・ナウェン「明日への道」より
12月24日(火)このクリスマスイブに、もっとマシなことが書けたらと思う。 しかし真実を書くほうが、信心深そうなことを書くより良いだろう。 神は来られる。落ち着きのない心、何かを不安がる心に 神は来られる。 自分の いらだち、混乱。 しかし、神はそれをなんとかしてくださるという信頼を神に捧げよう。