目を覚ましていること。

2021年08月27日

今日の福音は、愚かなおとめと 賢いおとめ 合わせて10人のおとめの例え でした。                     (マタイ25・1-13)                                                1節から読んで、最後まで来ると あれ?と思う。                                    

『だから、目を覚ましていなさい。                                         あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』

目を覚まして って、おとめたち全員寝ちゃったのにね。                              なにが違ったかといえば、油を用意していたか いなかったか。                               だから「目を覚ます」=「用意している」てことなのだろうか

今日この箇所を読んでいて、ふと思い出したところがありました。                            列王記上19・5-8 エリヤが 女王イゼベルに殺されそうになって逃げているところなのですが                  なんだろ、だいぶ前に読んで印象に残っていたのもあるのかな。

彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。                                     御使いが彼に触れて言った「起きてたべよ」                                  見ると枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、                          エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。

主の御使いはもう一度戻ってきてエリヤに触れ、                                「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。                         エリヤは起きて食べ、飲んだ。                                           その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜 歩き続け、                               ついに神の山ホレブに着いた。

うーん、なんていうか…                                           自分の持っているこのともし火は、最後まで消えることは無い。                            と思っているんじゃないか、という気がします。

賢い人たちは「店で買ってきなさい」と言うけれど、                                 自分の力で手に入れられると思うなら、あんまり変わりないのかもなぁ、と思ったり。                                                           まだ ともし火が燃えているうちに、なにを始めようか?

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今日の画像は、持ってた小冊子の表紙。                                      エルフの帽子の先の ともし火は、心をあらわしているみたい。                          そのときによって黒煙をあげたり 消えそうになするのが好きなのです。

             


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