目を覚まして

2021年11月28日

―  いつも目を覚まして 祈りなさい。ー

待降節、第一主日 ルカ21・25-28、34-36 の最後のところ。                              今日の神父さまのお話しから、                                             日本語だと「目を覚ましている状態になるように、祈れ」だけれど、                           ギリシャ語を見てみると「目を覚ませ、祈れるように」となっている。

私たちはいつも祈っているが、目を覚ませとはどういうことだろうか?                           身を起こし、頭を上げ、イエスを見ているが、                                     心はどうなのか? イエスのほうを向いているのか? と。

正直、この時期いろいろすることが多い。                                        外見として、カタチとして、体を起こし 頭を上げていることも しんどい。                           でも心はあなたのほうを向いています!                                        、なんて綺麗なことも言い切れない。

待降節が始まる。イエスを迎える準備、ちっともできていない。                             待降節、なんのため? なにを思えばいいんだろう。                                   そんなことを考えている時、耳に入ってきた聖書の言葉、                               食堂でだったかなー(福音だけ食前の祈りの時に 少しずつ読まれていくっていうのがあるのです)

ー まだ一人、愛する息子がいた。                                         『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、                                      最後に息子を送った。ー

ぶどう園と農夫のたとえ のところ。                                        あるひとがぶどう園を作って農夫たちに貸して 旅に出た、                                収穫の時になったから、しもべを送って受け取ろうとする。                              でも農夫たちは、送られてくるしもべ達を殺したり ひどい目に合わせて追い返す。

そこで最後に、このぶどう園を作った人が言う言葉が、これなんですね。                          農夫たちは、長い年月の間に ぶどう園は自分たちの物だと思うようになったのかな、                  

愛する独り子を、私たちのもとに送って下さった御父の 想い。                             その想いとまったくひとつとなって、私たちのもとに来てくださる イエズス。

私の心は どこを向いているのかな。                                       なにを待ち望んでいる? 誰を 待ち望んでいるのか…

待降節、まだ始まったばかり。                                            恵みの時に、感謝の中に過ごしてゆけますように。

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