目を覚まして
― いつも目を覚まして 祈りなさい。ー
待降節、第一主日 ルカ21・25-28、34-36 の最後のところ。 今日の神父さまのお話しから、 日本語だと「目を覚ましている状態になるように、祈れ」だけれど、 ギリシャ語を見てみると「目を覚ませ、祈れるように」となっている。
私たちはいつも祈っているが、目を覚ませとはどういうことだろうか? 身を起こし、頭を上げ、イエスを見ているが、 心はどうなのか? イエスのほうを向いているのか? と。
正直、この時期いろいろすることが多い。 外見として、カタチとして、体を起こし 頭を上げていることも しんどい。 でも心はあなたのほうを向いています! 、なんて綺麗なことも言い切れない。
待降節が始まる。イエスを迎える準備、ちっともできていない。 待降節、なんのため? なにを思えばいいんだろう。 そんなことを考えている時、耳に入ってきた聖書の言葉、 食堂でだったかなー(福音だけ食前の祈りの時に 少しずつ読まれていくっていうのがあるのです)
ー まだ一人、愛する息子がいた。 『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、 最後に息子を送った。ー
ぶどう園と農夫のたとえ のところ。 あるひとがぶどう園を作って農夫たちに貸して 旅に出た、 収穫の時になったから、しもべを送って受け取ろうとする。 でも農夫たちは、送られてくるしもべ達を殺したり ひどい目に合わせて追い返す。
そこで最後に、このぶどう園を作った人が言う言葉が、これなんですね。 農夫たちは、長い年月の間に ぶどう園は自分たちの物だと思うようになったのかな、
愛する独り子を、私たちのもとに送って下さった御父の 想い。 その想いとまったくひとつとなって、私たちのもとに来てくださる イエズス。
私の心は どこを向いているのかな。 なにを待ち望んでいる? 誰を 待ち望んでいるのか…
待降節、まだ始まったばかり。 恵みの時に、感謝の中に過ごしてゆけますように。