王であるキリスト

2020年11月22日

そう、そういえばですよ、                                去年のこの祭日に私たち、長崎での教皇フランシスコのミサに与ったんですよね!       ああ、もう1年もたつのか… でもなんかもっとずっと前のような気もする…         その時のミサ説教とかを読んで、なんだかしみじみしてしまいました。

昨日の読書課で、カトリック聖歌281 王たるキリスト の讃美歌を歌ったんですが、     その中の歌詞にこんなのがありました。

『主を知らぬ者も みな君の民  愛のみつるぎよ 刺せ魂をば』               

どういう意味なんだろうなーと考えながら、ちょっと似たような感じで思い出したのが、

ヘブライ4・12                                     神の言葉は生きており、-…どんな両刃の剣よりも するどく、               精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、                    心の思いや考えを見分けることができる。

年間最後の主日であり、新たな典礼年の初め、待降節の始まりに向けて            自分が何に、誰に仕える者であるのか。そうでありたいのか。                見つめてゆきたい。

先週 私たち少し黙想する機会があったのですが、その中で                 祈り=自分を明け渡す、「私が」から「あなた」を主語にするとき、             神によって満たされてゆく、、                              あらためて、毎日の祈りの時 トクベツなことなんだな~と。                この空間、この時間、明け渡してできた空洞があるから、響くことができる。         そして、そんな一人ひとりの心が響き合ってるんだなーと、ひとりじゃなくてね。       (黙想指導に来てくださったシスターに感謝しています!)

今日の福音(マタイ25・31-46)でイエズスは言います。          

ー… 王は答える。                                   わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、                わたしにしてくれたこと なのである。

その人たちのために祈ってあげる。とは思いたくない。                   自分も貧しくて、小さい者のひとりだと思うから、互いに祈り合う中に            王であるかた、でも 仕えられるためでなく 仕えるために来た。と言われるかたを       見出してゆくことができますように。

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