王であるキリスト
そう、そういえばですよ、 去年のこの祭日に私たち、長崎での教皇フランシスコのミサに与ったんですよね! ああ、もう1年もたつのか… でもなんかもっとずっと前のような気もする… その時のミサ説教とかを読んで、なんだかしみじみしてしまいました。
昨日の読書課で、カトリック聖歌281 王たるキリスト の讃美歌を歌ったんですが、 その中の歌詞にこんなのがありました。
『主を知らぬ者も みな君の民 愛のみつるぎよ 刺せ魂をば』
どういう意味なんだろうなーと考えながら、ちょっと似たような感じで思い出したのが、
ヘブライ4・12 神の言葉は生きており、-…どんな両刃の剣よりも するどく、 精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、 心の思いや考えを見分けることができる。
年間最後の主日であり、新たな典礼年の初め、待降節の始まりに向けて 自分が何に、誰に仕える者であるのか。そうでありたいのか。 見つめてゆきたい。
先週 私たち少し黙想する機会があったのですが、その中で 祈り=自分を明け渡す、「私が」から「あなた」を主語にするとき、 神によって満たされてゆく、、 あらためて、毎日の祈りの時 トクベツなことなんだな~と。 この空間、この時間、明け渡してできた空洞があるから、響くことができる。 そして、そんな一人ひとりの心が響き合ってるんだなーと、ひとりじゃなくてね。 (黙想指導に来てくださったシスターに感謝しています!)
今日の福音(マタイ25・31-46)でイエズスは言います。
ー… 王は答える。 わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたこと なのである。
その人たちのために祈ってあげる。とは思いたくない。 自分も貧しくて、小さい者のひとりだと思うから、互いに祈り合う中に 王であるかた、でも 仕えられるためでなく 仕えるために来た。と言われるかたを 見出してゆくことができますように。