清くされた、いやされた … 救われた。
修道院の聖堂から見える景色も、緑の葉はみえなくなり 少なくなった葉は鮮やかに、もしくは渋く紅葉して 秋の深まりを感じる今日このごろです。
昨日の福音ルカ17・11-19 皮膚病を清くされた10人のうち、戻ってきたのはひとりだけだった、というところでした。
9人とひとりの人の違いはなんでしょう? 言葉を見ていくと、何かおもしろい。 「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」 なぜ、いやされた ではないのだろう?
清くされた のは全員で、皮膚病が治ったということに気付いたのも 全員。 「そのなかのひとりは、自分がいやされたのを知って・・・」 このひとだけが気付いたこと=いやされた、ということなのか 9人は自分が治ったことに喜んだ。 ひとりの人は自分が いやされた ことに気付いた。
いやされた、ということは誰かが自分をいやした、ということだ それは 誰 なのか? みんなで出迎えて、憐れんでくださいと頼んだのは 誰だったのか?
その人は、「大声で神を賛美しながら戻ってきた。」 「そしてイエスの足元にひれ伏して感謝した。」 自分をいやして下さったかたを、知ったから。
イエスはその人に言う 「あなたの信仰が あなたを救った」
私をいやして下さったかたを知ったから、 そのかたを賛美し、感謝する。 それが私を救う、救われた ということなんだ。