柴は 燃えつきない!
モーセは言った 「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。 どうして あの柴は燃えつきないのだろう。」 (出エジプト3・3)
今日の第一朗読のところから。 ここを読みながら、十字架を 十字架のイエスを重なってくるように感じました。 燃えつきない柴。不思議なこと。 イエスの十字架は なんなのか、なんのためなのか?
道をそれて それを見に行くと、神の呼びかけが聞こえる。 道をそれて、とはどういうことなんだろう。 神は言う「あなたの痛みをしっているよ」「あなたの声を聞いているよ」 「わたしは あなたをそこから連れ出す」と。
自分が当たり前だと思っていること、世の常識、人々の目、 そんなものの中に、実は閉じ込められて 押し込められている、 私の道から それることは簡単なことじゃない。
モーセは言う。私は何者でしょう?と、そんなことできるわけないって。 すると神さまは、ご自分が何者なのか、その名を教えることで答えられる。
神を神殿の中だけに、狭いワクの中だけに閉じ込めようとする壁 隔ての壁を壊して、イエスは十字架にかかってくださった。
イエスの十字架 = 私たちの救い イコールでなんて表せるものじゃない。 ひとりひとりが心の底であげる叫びと、それへの答えに同じものなんて無いから。
今日は燃える柴を十字架と捉えたけれど、明日はまったく違うものに見るかもしれない。 私の隔ての壁は高くて分厚い。 けれど、ふと耳に届く音、垣間見えるなにか、隙間を通して差し込む光りに 呼びかけ続けるイエスが そこにおられることを感じたい。
見よ、柴は燃えているのに、燃えつきない! 十字架は決して居心地の良い場所じゃない。 痛み、苦しみ、渇き… そしてイエスはそこで死んだんだ。 だのに、そこから呼びかけ続ける。 イエスの十字架は、隔ての壁の裂け目になって もう閉じることは無いんだ。
あぁ、いつにも増して支離滅裂さ加減がヒドイ; 画像もなんか付けなきゃ彩りも無いっていうのに 殺風景なページでごめんなさい。 こんなのを度々読みに来てくださる方々に、感謝です。