最後の1クァドランスを。
今日の聖書箇所を 読みながら思ったこと。 いつものようにMemo みたいなもので・・・
エゼキエル18・21-28 マルコ5・20-26
最初に思ったことは、福音のほう。 ーあなたを訴える人と一緒に道を行くー とは どんな状況なの?と。 訴えられて 一緒に行くということは、自分の方が正しいと思っているということかな…と。
だけど、 ー その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、 あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 はっきり言っておく。最後の1クァドランスを返すまで、 決してそこから出ることはできない。ー
と、言われる。 この文はなんだか今日の福音の最初の文に 似てる。
ー 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。ー
「出ることはできない」と「入ることができない」は同じことのように感じる。 出る ことができないなら、入る ことができない?
最後の1クァドランスって何なんだろう。そこから出る とはどういうことなのか? 自分たちの義が、他の人の義にまさる、とはどういうことなのか… 自分の正しさ というのを捨てることかな、、 義が正しさとすれば、私を義として下さるのは誰なのか、ということかなぁ?
そんなふうに思いながら第一朗読 エゼキエルをみると、 悪人が生きるようになるー自分の正しさを捨てた 正しい人の死ー神さまの正しさを 手放してしまった ということなのかもしれない、、と。
エゼ18・25 ー それなのにお前たちは「神の道は正しくない」と言う。 聞けイスラエル家よ。わたしの道が正しくないのか。 正しくないのは、お前たちの道ではないのか。ー
うん、、四旬節のはじめ 灰の水曜で言われる 「塵にすぎないあなたは 塵にかえってゆくのです」(すごい うろ覚え;すみません) も、ほんとに塵にかえれっていうのじゃないんだろうなと、 その ちりから私をつくりだしてくださったこと、 つくりだしてくださったのは 誰なのか、ということに目を向けていきたいな、と思いました。