新しい名前、新しい器
ー 神に心を閉じてはならない きょう こそ神の言葉をきこう ー
今日のミサの栄唱から、「きょうこそ」がイイ。 そう、いつもその日の聖書箇所を開くとき きょう、神さまが何か私に言いたいことがあるはずなんだ。と思う それを受け取りたいから読むんだけど、 まあ集中できるときもあれば、あっという間に忘れることもある… はい、でも神さまはいろんな手段をお持ちなので 思いもかけないところで気付くこともあるんじゃないかな、と。
きょうのミサでのお話し、 アブラム → アブラハム のところでしたが、 聖書では名前はその人の本質を表すもの。だから 名前が変えられるのは、その人 そのものの存在の意味が変わること、と。 アブラハムは 神の救いの器になった。
私たちの洗礼名も そう。 新しく神のいのちに生きる者となった、神の子 となった しるし。 神に協力してゆく務め、隣人を愛し、 愛のわざを実現してゆく…
そういえば、私の洗礼名は聖人の名前じゃないのですが 修道院に来てすぐの頃かな? ある黙想会で、私の名前とか全然知らなかったのに そのときの神父さまが、その言葉の意味をすごく丁寧に説明して下さったんですよね。 それは なんかとても嬉しかった。 この名前にはそんな意味があったんだ。って 自分でも知らなかった。
新しい名前、新しい器。 満たしてゆくことができるますように。