新しい名前、新しい器

2022年04月07日

ー 神に心を閉じてはならない きょう こそ神の言葉をきこう ー

今日のミサの栄唱から、「きょうこそ」がイイ。                                     そう、いつもその日の聖書箇所を開くとき                                         きょう、神さまが何か私に言いたいことがあるはずなんだ。と思う                            それを受け取りたいから読むんだけど、                                          まあ集中できるときもあれば、あっという間に忘れることもある…                          はい、でも神さまはいろんな手段をお持ちなので                                   思いもかけないところで気付くこともあるんじゃないかな、と。

きょうのミサでのお話し、                                             アブラム → アブラハム のところでしたが、                                       聖書では名前はその人の本質を表すもの。だから                                     名前が変えられるのは、その人 そのものの存在の意味が変わること、と。                       アブラハムは 神の救いの器になった。

私たちの洗礼名も そう。                                                新しく神のいのちに生きる者となった、神の子 となった しるし。                            神に協力してゆく務め、隣人を愛し、                                          愛のわざを実現してゆく…

そういえば、私の洗礼名は聖人の名前じゃないのですが                                   修道院に来てすぐの頃かな?                                          ある黙想会で、私の名前とか全然知らなかったのに                                   そのときの神父さまが、その言葉の意味をすごく丁寧に説明して下さったんですよね。                         それは なんかとても嬉しかった。                                             この名前にはそんな意味があったんだ。って                                     自分でも知らなかった。

新しい名前、新しい器。                                                満たしてゆくことができるますように。                     

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう