手遅れ、は無いんだよ。
わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである(ルカ8・19-21)
今日の福音と、神父さまのお話しを聞きながら、イエズスは私に 理解することを 求めてはいないような気がするなーと感じていました。 お話のなかで引用されたイザヤ書、
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
は、先週朗読されたところで、捕囚中の予言、手遅れの予言。 それは無意味なことなのか?というお話しだったと思いますが、、 たぶん神さまにとって、手遅れ ということは無いんだ、と思う。 確かに人は昔も今も変わらないのかもしれない。 でも一人ひとりの一生の中で、経験、体験があって、受け入れた時 少しずつかわってゆく… その時のお話しの中で印象に残った言葉がありました。
「そうじゃないにも関わらず、そうだ と言ってくださるイエズス」 「自分にしなないとだめ、生かされないと だめ」
たくさんの理想、こうあるべき と言われる姿、期待 もしくは期待されないこと、、 そんな中で、もちゃ もちゃと生きている 私 という現実 自分を手放しきることもできず、その思いを見上げることも忘れている… それでも(だから?)、何時になっても来てくださる また次の日も、次の日も、 もらえるのは一日分の報酬。今日を生きるために かき集めてくださった いのち なんだ。 一人ひとりに約束してくださることに感謝したいなあ
私 が見る私 を信じるのか、それともイエズスが見る 私 を信じることができるだろうか。