待降節

新しい典礼暦、待降節第一主日は「目を覚ましていなさい」 という言葉からはじまりました。
待降節はイエスが人となって私たちのところに来てくださったことと、 終わりのときに 再び来られること への待望、よろこびのときですが、 ほとんど無意識に 待降節は夜、暗闇から始まる。と感じるのではないだろうか ひかり へ向かうための、ひかり を見出すための、 ひかり を迎えるための 暗闇、というのか…
イエスを待ち望みながら、でも私たちはイエスを迎えるために 歩き出すときなのでは、とも思います。
待降節第一主日の聖書と典礼、解説のところでは 『待降節とは神の到来を待ち望む季節であり、 その到来に向かって生きる態度が「目を覚ましている」ことである』 とありました。
そういえば、第一朗読 イザヤ2・1-5も面白いな、と。
終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。 国々はこぞって大河のようにそこに向かい 多くの民が来て言う。 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
大河、河と聞くと、流れてゆく 低い方へと流れてゆくのを自然に思い浮かべるけれど、 この河は山に向かい、山を登ってゆくんだなぁ と考えさせられます。 私はどこへ向かって歩み始めるのだろうか?
画像は修道院のアドヴェント・リース。 なんでも一本目のろうそくは「希望」という意味があるそうですよ。