弟子としての、、
神の道を歩むとき、弟子としての 私 が入ってくる。と、(神父さまのお話しから) 弟子ってなんだろうか、修道者になることが弟子になるってことではない。 その人その人のなかで深めてゆくこと、応えてゆくこと と思う。
この前触れた、ガラテヤの箇所がまだ残っていて ーイエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならないー なんですが、この「誇るもの」なんとなく記憶では「誇りとするもの」だと思ってたんですよね、、 ちょっと感じがちがってくるなあ、と。 誇る=自慢とか、自尊心 だけど、 誇り=自分が自分自身であること?それによって立つもの…?
十字架を 誇りとする 、真ん中にある芯のようなものだろうか、 そういえば、もっと昔に黙想会とかでシスター達と話したりしているときに、 この人たちのなんてゆうか、真ん中に何かがあるような感じは なんなんだろう… そんなふうに私も持てるだろうか、と思ったことをㇷと思い出しました。
福音では、ユダがずっと出てきていますが、 裏切る=イエスに価値を見出さないこと。と聞いて、 ユダはイエスを銀貨30枚の価値にしてしまった。もうそれ以上にも何にも見れなくなってしまったのかな、と
イエスの足に香油を注いだマリアと対照的な感じがします。 マリアはあるだけ全部そそいだ、もっとあればそれだけ同じようにしたのじゃないかな、 何故そうするとか、はっきりわからなくても。 「私」ではなく、あなたに あなたが、ということなのかもしれない。