弟子としての、、

2021年03月31日

神の道を歩むとき、弟子としての 私 が入ってくる。と、(神父さまのお話しから)                   弟子ってなんだろうか、修道者になることが弟子になるってことではない。                     その人その人のなかで深めてゆくこと、応えてゆくこと と思う。

この前触れた、ガラテヤの箇所がまだ残っていて                                ーイエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならないー                    なんですが、この「誇るもの」なんとなく記憶では「誇りとするもの」だと思ってたんですよね、、          ちょっと感じがちがってくるなあ、と。                                    誇る=自慢とか、自尊心 だけど、 誇り=自分が自分自身であること?それによって立つもの…?       

十字架を 誇りとする 、真ん中にある芯のようなものだろうか、                          そういえば、もっと昔に黙想会とかでシスター達と話したりしているときに、                    この人たちのなんてゆうか、真ん中に何かがあるような感じは なんなんだろう…                  そんなふうに私も持てるだろうか、と思ったことをㇷと思い出しました。

福音では、ユダがずっと出てきていますが、                                    裏切る=イエスに価値を見出さないこと。と聞いて、                                ユダはイエスを銀貨30枚の価値にしてしまった。もうそれ以上にも何にも見れなくなってしまったのかな、と        

イエスの足に香油を注いだマリアと対照的な感じがします。                                        マリアはあるだけ全部そそいだ、もっとあればそれだけ同じようにしたのじゃないかな、                 何故そうするとか、はっきりわからなくても。                                  「私」ではなく、あなたに あなたが、ということなのかもしれない。         

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう