家族の食卓
夏到来 から、ほんとにバリっとカレンダー1枚破り取るみたいに「夏」ですね。 何故にただ気温が高いというだけで、こう体力も消耗するのだろうか…
ええと、今週は福音も第一朗読も継続で、 ここ数日ちょっと思ったこととか前後しながら いつものようにゴチャゴチャいきますよ~
今日の福音(マタイ12・46-50)で、イエスは言われます。 「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か。」 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
第一朗読では出エジプトが読まれていて、 ちょっと前のところで(ちゃんと調べたら先週でした;) エジプトから導き出されたのは、イスラエルの人々なんですけれど ーそのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。ー と言われているのに おや?と思いました。(なんか、ひどい言われようですが (笑)
この人たちもイスラエルの人々と同じように苦しんでいたのかな? 神さまが同じように、深く憐れまれたのかな、と。
今週の主日(マルコ6・30-34) イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみー・・・ 神父さまのお話しの中で、 イエスの憐み=神の憐み 憐み=スプランクニゾマイ … お腹の底から、理屈によらない共感。 と言われていたのを思い出しました。
そこに集まった人たち「わたしの母、わたしの兄弟」と言われた人たちは、 イエスが深く憐れまれた、心の底からの共感を示された人たちなんだ。
これも先週なんですが、 私たちの甘い期待や、都合の良い解釈を イエスはひっくり返される、と ちゃぶ台をひっくり返すように。と言われたのが すごい好きでした。 いや、最後の晩餐のシーンが ちゃぶ台を囲むイエズスと弟子たちで浮かんできて(笑)
でも、ああ そうだなー その同じ食卓(ちゃぶ台)についている家族だけが ひっくり返されるのを目の当たりにすることができる。 衝撃を受けることができる。のかな、と
御心を行う人って難しいことのように考えていたけれど、 もしかしたら、イエズスと御父と 同じ食卓につく、つこうとすることなのかもしれないなぁ。。 なんてそれこそ都合の良い解釈なのか も…?