子どものように 駆けだす
今日は王たるキリストの祭日でしたが この主日と重なって、11月21日は聖マリアの奉献の祝日でもありました。 私たちは毎年この祝日に誓願更新をしますので、 そのための短い黙想をもちます。
指導司祭のかたを招いて、私たちの黙想をもつのは とても久しぶりで、 皆それぞれに良いときを過ごせたのではないかと思います。
私は何故だか黙想の一番最初に読まれた聖書の箇所が印象に残って、 黙想の間も、ときどきその印象を思い出していました。
ー 主はサムエルを呼ばれた。 サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、 「お呼びになったので参りました」と言った。 しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、 サムエルは戻って寝た。 ー (サムエル記3・1-10より)
サムエルの召命と言われる箇所ですが、 神父さまが合わせて言われた 「子どものような心にならなければ、神の国に入ることはできない」 というのを聞きながら、
「走っていく」て子どもの特徴のひとつだなぁ、と。 子どもってパっと駆け出していく、その軽やかさ!
年を重ねていくと、考えや 予想や 経験や なんやかやで その最初の一歩はどんどん重くなる。 まあ、それも必要ではあるのだけれど…
でも この駆け出していく(何度も!)サムエルを見ていると、感じるような気がするんです。 その背中に滲む うれしさに。 その弾む足取りのよろこびに。
尊敬して、慕う人が自分を呼んでいる ということ。 違っていてもサムエルは気にしません。戻って寝る、それだけ! くり返すなかで、気付かせてくださる。ちゃんと教えてくださる。
だから、時には 経験も予測もリスクも放り出して 子どものように 駆けだそう。 私を呼ぶ声に、ただよろこびのままに