壊されていくこと
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。 人々の前で天の国を閉ざすからだ。 自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
キッツイ言葉だなぁ、と思う。 今日の福音、マタイ23・13-22 冒頭の言葉。 どうしてそう思うかというと、自分がそうじゃないとは言い切れないから。
自分がこうして発している言葉や行動、 「良い」と思っていることが、誰かのつまずきとなったり 遠ざけてしまうことになっているかもしれない…
続けて福音を読んでみると、、
ものの見えない者たち、供え物と、 供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、 祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ
自分がしていること、しようとしていること、 その本質…うーん? 真ん中にあるのは何なのか。
ちょうど目にした 十字架の聖パウロの言葉がありました。
『 あなたのあらゆる計画が、良い計画でさえも、 壊されていくのを見ることを愛しなさい。 なぜなら、神が、あなたに、 計画を完全に実行させてくださるときがあるからです。』
驚きと、なにか嬉しさが なにか沁みこんでゆくような…
もちろんこういう言葉を聞いて、ああ そうだな と、心動かされる。 だけど、すぐにそうできるワケじゃなくて、 実際は心の奥で せめぎ合ってる。自分の気持ちと。
でも そうして噛みしめて、ゆっくりゆっくり味わって、 受け入れて、かわってゆけたら いいと思う。
壊れたあとに のこるものはなんなんだろう