光はどこに、光はだれと?
もう四旬節も4週目。 主日に読まれた福音(ヨハネ3・16-21)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
入門講座に行っていた頃、その神父さまがよく言っていたことを思い出した。 「神さまは、ただ ひとりさえ失うことを 望まれない」 ほんとによく言ってらしたけれど、(笑) その声や、目や、表情とか、、 あ、また言うな。と思っても、何度でも聞きたかった。 何度も聞いているのに、いつも少しの驚きがあって、そして うれしかった。
光のほうに行かないのは、自分の行いが明かるみに出されるのを恐れているから。 明るみ、ってなんだろう。 明るみが、人の目だと思うなら、それは確かに嫌だろうなぁ。 明るみは、ひかり、世に来た光。と思うなら 神さまの目には知られていないことなんてあるんだろうか? 恐れることはないんだと、十字架のイエズスを見上げて思う。
それでも、恐れはあるけれど、それをこえて信頼になるように 光のほうに、一歩踏み出す。その勇気をくれる言葉を、いつも思い出したい。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。