父のみ手の上に落ちる
2・3日前の福音、ともし火と秤のたとえを読んでいた時 (マコ4・21-25)
ー何を聞いているかに注意しなさい。 あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられるー
というところで、少し考えこみました。 いつも なんとなく分かっているような気で読んでいるのかもな、と。 あれでしょ、信仰のことなんでしょ? というような感じ。
でも、私の秤で量って与えられる。私の秤とはなんだろうか? 第一朗読はどんなだったろうか、と思って読み返してみると ダビデがこんな言葉で祈っていました。
「イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、 『あなたのために家を建てる』と言われました。 それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」
何かを「聞く」ことが出来るのも、 祈りをささげることが出来るのも、自分からではないんだなぁ。 信仰、というよりも 信頼 というのがしっくりくる。そんなように感じました。
いま食堂で教皇ベネディクト16世の「ナザレのイエス」が読まれているのですが、 ちょうど読まれていたところが印象的だったので、ちょっとメモ メモ (イエスが洗礼の後で、悪魔の誘惑を受けるところ)
キリストは神殿の尖塔から飛び降りませんでした。 …しかし彼は死の深みに、見捨てられた者の暗夜の中に、遺棄された者の孤独の中に、 無防備のまま下りて行きました。 彼はこの跳躍を人間に対する神の愛の行為として敢えて行ったのです。
このゆえに彼は、この跳躍によって最終的には 父のみ手の上にのみ落ちることができるのだということを知っていたのです。