使徒バルトロマイ

2021年08月24日

今日は使徒、聖バルトロマイの祝日でした。                                  バルトロマイ=ナタナエルである。というのが伝統的な定説ですね。                           「ナタナエル」とは「神は与える」という意味らしいです。

今日読まれた福音も、ナタナエルの場面でしたが                                短い場面のなかで、起こるいろんな出来事を                                     自分と照らし合わせて見ることもできるなぁ、と考えたりしました。

教皇ベネディクト16世の言葉にこんなのがありました。

『ナタナエルの出来事は、わたしたちにもう一つのことを考えさせます。                       わたしたちは、イエスとの関係において、ことばだけで満足してはならないということです。            フィリポは答えて、ナタナエルに対する重要な招きを行います。「来て、見なさい」(ヨハネ1・46b)。      わたしたちは、イエスを知るために、何よりも生きた経験を必要とします。                     ほかの人のあかしもたしかに大事です。                                    総じて、わたしたちのキリスト教生活の全体は、                                    一つかそれ以上のあかしによってわたしたちにもたらされた、告知から始まります。                    けれども、わたしたち自身も、個人として、イエスと、親しく、また深い関係を結ばなければなりません。』

とにかく、イエスのところに行ってみたナタナエルは                                 イエスのほうから声をかけられます。イエスの言葉は不思議です。                         「どうして私を知っておられるのですか」というナタナエルの驚きは、                        私たちも感じたことがあったのではないかな。と、

そして、ナタナエルのその問いへのイエスの答えは もっと不思議で                         私にはまったくわからないこと。                                        でもナタナエルには違ったんだ、ということ。                                 

他の人にはわからないけれど、自分のなかで カチリ と音がするように                         なにか、イエズスとの関係を感じる瞬間だったり                                 自分の答えをはっきり認識するような、                                    そんな経験が、私たちにもあったんじゃないかな とそんなことを思わせてくれた祝日でした。

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