使徒バルトロマイ
今日は使徒、聖バルトロマイの祝日でした。 バルトロマイ=ナタナエルである。というのが伝統的な定説ですね。 「ナタナエル」とは「神は与える」という意味らしいです。
今日読まれた福音も、ナタナエルの場面でしたが 短い場面のなかで、起こるいろんな出来事を 自分と照らし合わせて見ることもできるなぁ、と考えたりしました。
教皇ベネディクト16世の言葉にこんなのがありました。
『ナタナエルの出来事は、わたしたちにもう一つのことを考えさせます。 わたしたちは、イエスとの関係において、ことばだけで満足してはならないということです。 フィリポは答えて、ナタナエルに対する重要な招きを行います。「来て、見なさい」(ヨハネ1・46b)。 わたしたちは、イエスを知るために、何よりも生きた経験を必要とします。 ほかの人のあかしもたしかに大事です。 総じて、わたしたちのキリスト教生活の全体は、 一つかそれ以上のあかしによってわたしたちにもたらされた、告知から始まります。 けれども、わたしたち自身も、個人として、イエスと、親しく、また深い関係を結ばなければなりません。』
とにかく、イエスのところに行ってみたナタナエルは イエスのほうから声をかけられます。イエスの言葉は不思議です。 「どうして私を知っておられるのですか」というナタナエルの驚きは、 私たちも感じたことがあったのではないかな。と、
そして、ナタナエルのその問いへのイエスの答えは もっと不思議で 私にはまったくわからないこと。 でもナタナエルには違ったんだ、ということ。
他の人にはわからないけれど、自分のなかで カチリ と音がするように なにか、イエズスとの関係を感じる瞬間だったり 自分の答えをはっきり認識するような、 そんな経験が、私たちにもあったんじゃないかな とそんなことを思わせてくれた祝日でした。