主は いつもそこに
セミの声もぐぐっと力強くなって、 昨日くらいミンミン蝉の声が聞こえたような… これを聞くと、あぁ~ 夏だよねーって思います(笑)。
さて、今週に入ってからの福音は 「信仰」って何なんだろう。と なんだか考えさせられている気がします。
昨日の福音、マタイ15・21-28では カナンの女性が娘を治してもらおうと イエスのところに来ますが、 なんだかイエスは乗り気じゃない様子。 それでも諦めず うったえて、 最終的にはイエスに「あなたの信仰は立派だー…」とまで言われていますね。
何度か読みながら、ふと あ なんか似てるなぁ?と思ったのが 創世記18・20-33 「ソドムのための執り成し」というタイトルのところ。 なんだろう、まあまあ最近読まれたと思うのだけど 何でだったかしら。。ミサの朗読かな…?
ソドムの罪のために滅ぼそうとされる主の前に、アブラハムは進み出て 正しい者が何人いれば悪い者といっしょに滅ぼさないか、と めちゃくちゃ慎重というか、しつこく というのか 食い下がっていくのだけれど、 アブラハムは最後「もう一度だけ」と自分で決めて、 主に問いかけるんですよね。正しい人は「10人しかいないかもしれません」と
もし、最後「1人しかいないかもしれません」までいっていたなら、 どうなっていたんだろう。 いつもこの箇所ではアブラハムのほうに目が行っていて、 答える主の言葉は、機械的なようなで、 感情のこもっていないように感じていた、と気付きました。 でも、主はアブラハムが少しずつ食い下がってくるのを 嬉しく思っていたのかもしれない、と。 なんだか一瞬、こたえる主の言葉に やさしい眼差しが重なって見えたような、 そんな気がしたのでした…。
神父さまのお話しの最後に、じん ときました。
ー 主はいつも そこにおられます。 わたしたちが 助けを求めることが できるように ー