主は いつもそこに

2022年08月04日

セミの声もぐぐっと力強くなって、                                              昨日くらいミンミン蝉の声が聞こえたような…                                       これを聞くと、あぁ~ 夏だよねーって思います(笑)。

さて、今週に入ってからの福音は 「信仰」って何なんだろう。と                                  なんだか考えさせられている気がします。

昨日の福音、マタイ15・21-28では                                           カナンの女性が娘を治してもらおうと イエスのところに来ますが、                              なんだかイエスは乗り気じゃない様子。                                        それでも諦めず うったえて、                                           最終的にはイエスに「あなたの信仰は立派だー…」とまで言われていますね。

何度か読みながら、ふと あ なんか似てるなぁ?と思ったのが                                                    創世記18・20-33 「ソドムのための執り成し」というタイトルのところ。                          なんだろう、まあまあ最近読まれたと思うのだけど                                     何でだったかしら。。ミサの朗読かな…?

ソドムの罪のために滅ぼそうとされる主の前に、アブラハムは進み出て                                正しい者が何人いれば悪い者といっしょに滅ぼさないか、と                                   めちゃくちゃ慎重というか、しつこく というのか 食い下がっていくのだけれど、                     アブラハムは最後「もう一度だけ」と自分で決めて、                                   主に問いかけるんですよね。正しい人は「10人しかいないかもしれません」と 

もし、最後「1人しかいないかもしれません」までいっていたなら、                                どうなっていたんだろう。                                              いつもこの箇所ではアブラハムのほうに目が行っていて、                                   答える主の言葉は、機械的なようなで、                                     感情のこもっていないように感じていた、と気付きました。                                でも、主はアブラハムが少しずつ食い下がってくるのを                                 嬉しく思っていたのかもしれない、と。                                              なんだか一瞬、こたえる主の言葉に やさしい眼差しが重なって見えたような、                             そんな気がしたのでした…。

神父さまのお話しの最後に、じん ときました。                                    

ー  主はいつも そこにおられます。                                                        わたしたちが 助けを求めることが できるように  ー                       

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