ホサナ と声をあげて

とうとう聖週間、受難の主日を迎えました。 今日の受難の朗読、Aの役だったのですが この朗読の最後の言葉を言う 役目でもありました。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。 そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「本当に、この人は神の子だった。」
それまで、そんなに何か思うことなく ちゃんと読まないとな、と思っていたくらいだったけれど この最後に 口に出すとき、あぁ なんて言葉なんだろう… と
この人が神の子だ、と 私たちは いつ悟るんだろうか 百人隊長の見ているイエス。 百人隊長は 何故 そう言ったのだろう。
写真は「子ロバに乗るキリスト像」 これを探したのは、ヘンリー・ナウェンの《明日への道》という本に こんな文があったからです。(以下抜粋)
フライブルクの、アウグスティナ美術館にある「子ロバに乗るキリスト」は、 私の知る限りもっとも感動的なキリスト像の一つだと思う ~… イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれて エルサレムに入場しながらも、彼自身はまったく別のことに 意識を集中しているように見える。彼は熱狂する群衆を見ていない。 手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、 これから自分の身に起こることを見ている。 それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。
そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。 移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐みが溢れている。 これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、 神の御心を行うという強い決心がある。そのすべてに加えて愛がある。 尽きることのない、深く、遠くまで届く愛。 それは決して壊れることのない神との親しい関係から生まれるもので、 どこにいたとしても、どこにいるとしても、将来どこにいようとも、 漏れることなく届く愛である。 神には知り尽くせないものは何もなく、愛し尽くせない人は誰もいない。
このロバに乗ったキリストを見るたびに、 キリストは、罪、罪悪感、恥をすべて持ったままの私を見られ、 同時に、すべての赦し、 慈悲、憐みをもって私を愛してくださっていることを思わされる。
ちょっと長くなってしまいましたが、 この聖週間の恵みに感謝のうちに、過ごしてゆきたいです。