イエスのみこころ

2022年06月24日

イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表し、                        その信心はイエスのみ心に表される神の愛を思い起こし、                              その無限の愛のしるしであるみ心をたたえるものとして中世に始りました。                       (カトリック中央協議会HPより)

よく燃えている心臓に、傷のあるシンボルを見かけますね。                                 あれはイエスのわき腹を刺した槍が心臓まで届いた、その実際の傷なのか                             それともイエスのみこころにある傷なのか。                                       イエスの心は傷ついている( 誰も心に傷を負ったことのない人がいないように…

復活して弟子たちにあらわれたとき、                                       手足の傷もわき腹の傷もそのままに示して下さったように                                  イエスのみこころの傷も、見ることができるのでは と思いました。

教皇ベネディクト16世の言葉より                                       

「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、                          わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・・              『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。                      ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、                                  過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。                                  刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、                    神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」

イエスのわき腹を仰ぎ見るとき、その傷は 昔、誰かがつけた傷ですか                           『すべての人の目が 彼を仰ぎ見る ことに彼を突き刺した者どもは』(ヨハネの黙示)                     とあるように、なんとなく自分ではない、悪い人と言われるような人がつけた傷なのか。                  もしそうなら、私とは何の関係もないことのようです。

私はイエスの心を深く刺し貫いたことがないのか                                     私はイエスの心を深く傷つけたことがないのか

心臓としてあらわされるなら、みこころは「鼓動」している、と思う。                         鼓動は生きている証しだと思う。                                           鼓動していないなら、生きてはいない、と

心臓は鼓動することで体に血液を送ります。                                     みこころは鼓動して世界に愛を注ぎ続けます。                                       その傷のゆえに、鼓動するたびにあふれ 流れ出る…

イエスのわき腹を仰ぎ見るとき、                                            私が刺し貫いた瞬間に流れ出したイエスの想いは、止まることなく流れ続けているんだ。                   その傷は今も消えることなく、閉じることなく、                                   私を生かすいのちが、今までもずっと送られていたんだ。                                 そうして私の心も同じ鼓動を刻むようにと、、                                       

そんなことを思った、今日 イエスのみこころの祭日。


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