らくだ が針の穴から

いつまで続くのかと思う、暑い夏も 少しずつ動き出したような 今日このごろ。 でもなんか 今年は夕立が少ないですね? だいたいこの時期は、 夕方 突如暗くなって ゴロゴロいいだしてた気がするのだけれど…
さて、今日の福音は マタイ19・23-30。
イエスは弟子たちに言われた。 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、 らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、 「それでは、誰が救われるのだろうか」と言った。
イエスは彼らを見つめて、 「それは人間に できることではないが、神は何でもできる」と言われた。(19・23-26)
何度か読むうち、イエスは彼らを '見つめて' というのが心に留まった。 イエスは そんな弟子たちをどんな想いでみつめているのだろう?
今日の第一朗読、士師記6・11-24a を読んでみると、 ギデオンと主の御使いのこんな応答があった。
彼は(ギデオン)言った「わたしの主よ、お願いします。 しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。 わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。 それに わたしは家族の中でいちばん年下の者です」
主は彼に言われた。 「わたしが あなたと 共にいるから、 あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」 (6・15-16)
イエスは、人間にできることではないが、神は 『なんでも』できる。と言われた。 弟子たちは、金持ち=神に祝福されている と思っている。 だけど、弟子たちは誰といっしょにいるのか、 イエスは、あなたたちは わたしと共にいるのだ、と言いたかったのかもしれない。
「針の穴」という言葉から、 『 狭い戸口から入るように努めなさい。』というのを、ちょっと思い出した。 (ええと、ルカ13・24だそう) 教皇フランシスコは、この戸口はイエス自身。と言われていました。
私 の力で通ろうとすれば、針の穴のようだけど イエスと、神と共に だから行ける道なのかもしれないなぁ。