隣人、兄弟、 仲間。

2021年03月09日

ゆるす とか、ゆるされる とかって どういうことなのかなぁ…と思いながら                    今日の福音を聞いていましたが、                             最後、集会祈願だったかな?                                         ー新たな命の息吹に 満たされて…ー                                    というのが耳に残って、ゆるされるってこういうことかもな、と感じました。

なかったことにする。でもなくて、                              それを越えて新しい関係に入っていく、ような。                      この例えの王様も、借金を帳消しにした家来に、                          自分(王様)がどういう者か知ってほしかったんじゃないかな、と。                     それを知って、新しい命に生きてほしい、というか、、

今日の教会の祈りの晩課中、おや?と思いました。                          ”隣人を 心からゆるさないならば、わたしの父も あなたがたに同じようにされる”                 こんな言葉あったかしら?と、福音をもう一度 読んでみると、                         ・最初に「兄弟」を何回ゆるすべきか、とペトロが聞いていて、                        ・例えの中で「仲間」をゆるさない家来、となっている。

隣人、兄弟、仲間・・・                                        兄弟 は家族、同じ親、                                     仲間 は同じ目的、志し、とかかな?                                  隣人 は隣にいる人、共に歩いてゆく人 

ゆるさないなら、もう仲間でも 兄弟でも 隣人でもなくなってしまう、                 日々新たにされる、神さまとの関係があるから 人々との関係も築いてゆくことができる、           兄弟、隣人、仲間 として。

もし、神さまが ゆるさない なら私と神さまの関係は、終わりでしょ?                      でも決してそんなことは無い から、イエズスは十字架におられるんだと  思う。

私たちもゆるさないなら、そこで終わってしまうけれど、                           7の70倍までも、何度でも ゆるす ということを選んでゆくなら、                     新たな命に満たされて、共に歩んで行くことができる。

そこに、たぶん よろこび が… そう、おだやかな よろこびが ある。                      そんなふうに思う。


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