もう夜はない
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、 一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、 みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。
今日の第一朗読、使徒言行録15・1-2、22-29 の最後のところ。 先週からここと、この結論に至るまでのところがずっと読まれていたように思いますが 「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と言うユダヤ人の言葉から、 『異邦人』と呼ばれる人たちが やっと解放された、と感じました。
第二朗読、黙示録21・10-14、22-23 では 聖なる都エルサレムが神のもとから下ってくる… を読んでいて、いつも教会の祈りに出てくる言葉を思い出しました。 寝る前の祈り(主日・祭日)の神の言葉で
『神のしもべたちは神の顔を仰ぎ見る。 彼らの額には神の名が刻まれている。 もう夜はない。ともしびも 太陽の光もいらない。 神である主が 彼らを照らし、彼らは永遠に支配する。』
聖書箇所を見ると、ちょうど今日の朗読のすぐ後に続くところでした。 ― 太陽も月もない。子羊が都のあかり ー ということは,陽が沈み また夜が来る ということはもはやないんだ、 夜は過ぎ去ったんだ、と。 あと、なんでしたか 出エジプトで三日間暗闇になったとき、 イスラエル人の住むところには、どこでも光があった。というのも思い出しました。
福音 ヨハネ14・23~29 では わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、 父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。…
とあって、聖霊を遣わして下さる。という言葉と相まって 一人ひとりの上に聖霊がくだること、 私たちのうちに住まわれること、、 私たちを照らす光とはどんなものだろうかと考えます。
主の昇天、そして聖霊降臨へと向かうこの季節を どうか実り豊かなものにしてくださるよう祈りながら、 今日も はじめてゆきましょう!