みつめて、みつめられて
「来なさい そうすれば わかる」
今日の福音からですけども、わかる は原文では 見る と同じ語なんですって。 有名な Come and See 来て見なさい ですね。
ちょっと印象に残ったのは、 洗者ヨハネが、イエスをみつめて 見よ神の子羊だ て言ったのと イエスが、ペトロをみつめて あなたの名は… と言ったところ。
私たちはイエスをみつめて、イエズスも私たちをみつめている。 イエズスは生きていて、私たちを見て 本当の名前、ほんとうの望み?を分かってくださる。 私はそんなふうに鋭くなくて、 見なきゃわからないし、見たら分かるってものでもないんだけれど みつめ続ければ、わかることもあるかもしれない。
いっしょに生活して、近くにいつもいるということは、そういうことなのかもしれないな、と。 表面的な言葉とかだけでは分からなかったことが 見えてくることもある。 何を大切にしている? 何をよろこぶ? 何で怒る?
弟子になるってどういうことかな、と思う。 イエズスをみつめて、少しずつ知って、わかって、その想いを同じにしていく… そうしてそれが、また誰かの見つめる目にあらわれたら…そうなったらいいなあと思う。
今日神父さまの言われたことば、 「私たちの公生活のはじまり」確かな重みをもって受け止めていきたい Come and see そして Go with Me (讃美歌with Christ から) イエズスと共に!