みことば の 種。
今日の福音はマルコ4・1-20 荒地や茨の中に落ちた種と、良い土地に落ちた種のお話し。
神父さまは、今日の福音はすごくわかりやすく捉えることができるけれど、イエズスが引用された
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
というところから、み言葉は、わかりやすいためでなく、謎めいたもの。 私たちが考えるため、心に留めて思い巡らすため、 そうすると、そのみ言葉の種から芽が出てくる、、 今の自分の状況の中で思い巡らすことから… と言われました。
この福音を読んだとき、ああ、あのいつもの箇所やな~と思いましたが、 そういえば第一朗読はどんなだったかな、と確かめてみると ちょっと前からイエズスは大祭司である。というような所が読まれていて、今日はヘブライ人への手紙10・11-18 その中で、
ーしかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、 永遠に神の右の座に着き、その後は、 敵どもがご自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。ー
というのが なんだか残りました。
種を蒔く人は、神の言葉をまく。とイエズスは言われます。 み言葉の 種、種はみ言葉、 み言葉はイエス・キリスト? 蒔かれる種のひとつひとつが、イエズスそのものなんだなぁと思う。
結構前だけれど、印象的だったサムエル記の言葉。(3・19) 主は彼とともにおられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった ーを思い出し、そして なんだかそこからマリア様につながってゆきました。み言葉を宿して、イエズスを産んだかた…
私たちは、ほとんどの種を取りこぼしてしまうかもしれないけれど、 蒔く人は、種を蒔くことを止めはしないし、 そのひとつでも芽を出すなら、それがすべてになるのかな、と思う。
み言葉をおもうことは、イエズスをおもうこと なんだ と…