みことば の 種。

2021年01月27日

今日の福音はマルコ4・1-20 荒地や茨の中に落ちた種と、良い土地に落ちた種のお話し。

神父さまは、今日の福音はすごくわかりやすく捉えることができるけれど、イエズスが引用された 

『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。

というところから、み言葉は、わかりやすいためでなく、謎めいたもの。 私たちが考えるため、心に留めて思い巡らすため、           そうすると、そのみ言葉の種から芽が出てくる、、           今の自分の状況の中で思い巡らすことから… と言われました。

この福音を読んだとき、ああ、あのいつもの箇所やな~と思いましたが、    そういえば第一朗読はどんなだったかな、と確かめてみると          ちょっと前からイエズスは大祭司である。というような所が読まれていて、今日はヘブライ人への手紙10・11-18 その中で、

ーしかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、       永遠に神の右の座に着き、その後は、                 敵どもがご自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。ー 

というのが なんだか残りました。

種を蒔く人は、神の言葉をまく。とイエズスは言われます。        み言葉の 種、種はみ言葉、 み言葉はイエス・キリスト?             蒔かれる種のひとつひとつが、イエズスそのものなんだなぁと思う。

結構前だけれど、印象的だったサムエル記の言葉。(3・19)      主は彼とともにおられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった   ーを思い出し、そして なんだかそこからマリア様につながってゆきました。み言葉を宿して、イエズスを産んだかた…

私たちは、ほとんどの種を取りこぼしてしまうかもしれないけれど、    蒔く人は、種を蒔くことを止めはしないし、                そのひとつでも芽を出すなら、それがすべてになるのかな、と思う。

み言葉をおもうことは、イエズスをおもうこと なんだ と…

                          

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう