ぶどう園の、いちぢくの木。

2020年10月25日

昨日の福音、実のならない いちぢくの木(ルカ13・6-9)

そしてイエスは次のたとえを話された。                          「ある人がぶどう園にいちぢくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。    そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちぢくの木に実を探しに来ているのに、   みつけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』        園丁は答えた。 『御主人様、今年もこのままにしておいてください。            木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。   もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

神父さまのお話しの中で、信仰の実り=裁きのとき。                    よく信仰を生きてきた人にとっての収穫のとき。と言われていて、              裁きって言葉もヒビキも怖いんだけど、たぶん本当に会うとき なのかなーと思う。      よく、っていうのは善く、じゃなくて、、なんていうのか…                 いろんなこともやらかしたけど、会うためになんとかやって来ましたよ。みたいな、かな?   

でも、いつもは普通に、ああそうだなーって                        この箇所の前が悔い改めの話しだから、その意味でとって合ってると思うんですけど、     なんだか昨日は疑問ばかり浮かんできて…                         なんで、ぶどう園に いちぢくを植えたの? とか、                    もしそのふさがれてた土地が空いたら、何に使うんだろう? とか、             

切り倒せって言うのは、私なのかもしれない。                       実りはないし、目にみえないし、、だから切り倒して、あきらめてしまえって。        その方がラクでしょ?                                  耐えられないのは、あきらめるのは、手放してしまうのは、私のほうなんだよね~

でも、第二朗読(エフェソ4・7-16)にはこうあります。                  しかし、わたしたち一人一人に、キリストのはかりに従って、恵みが与えられています。

そして、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。             成長、してるのかなあ。目に入るのは周りのぶどうの木ばかりだし、、            あ、でもこんな言葉もあった、 

おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ・・・

うん、一人ひとりに与えられているものがあるから、                    そしてなにより神さまのほうは、絶対あきらめたりしないって                信じていくことができたらいいなあ!

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