ぶどう園の、いちぢくの木。
昨日の福音、実のならない いちぢくの木(ルカ13・6-9)
そしてイエスは次のたとえを話された。 「ある人がぶどう園にいちぢくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちぢくの木に実を探しに来ているのに、 みつけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。 『御主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
神父さまのお話しの中で、信仰の実り=裁きのとき。 よく信仰を生きてきた人にとっての収穫のとき。と言われていて、 裁きって言葉もヒビキも怖いんだけど、たぶん本当に会うとき なのかなーと思う。 よく、っていうのは善く、じゃなくて、、なんていうのか… いろんなこともやらかしたけど、会うためになんとかやって来ましたよ。みたいな、かな?
でも、いつもは普通に、ああそうだなーって この箇所の前が悔い改めの話しだから、その意味でとって合ってると思うんですけど、 なんだか昨日は疑問ばかり浮かんできて… なんで、ぶどう園に いちぢくを植えたの? とか、 もしそのふさがれてた土地が空いたら、何に使うんだろう? とか、
切り倒せって言うのは、私なのかもしれない。 実りはないし、目にみえないし、、だから切り倒して、あきらめてしまえって。 その方がラクでしょ? 耐えられないのは、あきらめるのは、手放してしまうのは、私のほうなんだよね~
でも、第二朗読(エフェソ4・7-16)にはこうあります。 しかし、わたしたち一人一人に、キリストのはかりに従って、恵みが与えられています。
そして、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 成長、してるのかなあ。目に入るのは周りのぶどうの木ばかりだし、、 あ、でもこんな言葉もあった、
おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ・・・
うん、一人ひとりに与えられているものがあるから、 そしてなにより神さまのほうは、絶対あきらめたりしないって 信じていくことができたらいいなあ!