ひとつの食卓

今日は三位一体の祭日です。 ちょっと去年ここにも書いた、「神の小屋」という本を思い出しました。 ( 好きなところNote とったはずー… と探し回って みつけた。よかった~)
パパと、イエズスと、サラユー(本の中の呼び方で)と、 みんなで食卓を囲んでるところが浮かんできます。 パパがつくった沢山の料理、それをお腹いっぱい食べるマック(主人公)
あのイギリス児童文学?によく出てくるような テーブルいっぱいの お菓子や飲み物、並べられた料理の あたたかな湯気や 香りもただよってくるような、あの感じ あれ大好きなんですけど それと同じようなものを感じる気がする。 憧れ というのか、そこに居たいと強烈に思わせる、そんな場面。
聖霊降臨からの一週間中のミサの福音箇所で、 枯れたいちぢく、と イエスが神殿から商人たちを追い出すところがありました。 このイエズスがいちぢくを枯らすところは、ちょっと謎なところですが、 そのときの神父さまのお話しで、いちぢく= イスラエル、で その神殿ではもうどんな実も結ばれることはない。どんな祈りも聞かれることは無い。 私たちは、イエズスという新しいぶどうの木によって 実を結ぶ。 イエズスによってのみ 実を結ぶ。
というのが印象に残っています。 それを思い出しながら、いちぢくの木は誘惑みたいなものだったのかなぁ、と。 青々とした木に、実を求めて近づかなくてもいいように枯らされたのかもしれない、なんて、、
それからもうひとつ浮かんできたのが、1コリント3・16 ーあなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。ー
その食卓は 一人ひとりの中にあるんだ、と。 ときには いっぱい話したいことがあって、 ときには 静かにお茶を飲んだり、 顔を伏せて ただ黙ってしまうときも、
しずかに椅子を引く音、腰かける振動や、ただそこにおられる空気を 感じられたら うれしい。