ひとつの食卓

2021年05月30日

今日は三位一体の祭日です。                                            ちょっと去年ここにも書いた、「神の小屋」という本を思い出しました。                       ( 好きなところNote とったはずー… と探し回って みつけた。よかった~)

パパと、イエズスと、サラユー(本の中の呼び方で)と、                            みんなで食卓を囲んでるところが浮かんできます。                                    パパがつくった沢山の料理、それをお腹いっぱい食べるマック(主人公)

あのイギリス児童文学?によく出てくるような                                   テーブルいっぱいの お菓子や飲み物、並べられた料理の あたたかな湯気や                         香りもただよってくるような、あの感じ あれ大好きなんですけど                             それと同じようなものを感じる気がする。                                       憧れ というのか、そこに居たいと強烈に思わせる、そんな場面。

聖霊降臨からの一週間中のミサの福音箇所で、                                   枯れたいちぢく、と イエスが神殿から商人たちを追い出すところがありました。                    このイエズスがいちぢくを枯らすところは、ちょっと謎なところですが、                        そのときの神父さまのお話しで、いちぢく= イスラエル、で                                     その神殿ではもうどんな実も結ばれることはない。どんな祈りも聞かれることは無い。                   私たちは、イエズスという新しいぶどうの木によって 実を結ぶ。                                イエズスによってのみ 実を結ぶ。

というのが印象に残っています。                                         それを思い出しながら、いちぢくの木は誘惑みたいなものだったのかなぁ、と。                   青々とした木に、実を求めて近づかなくてもいいように枯らされたのかもしれない、なんて、、

それからもうひとつ浮かんできたのが、1コリント3・16                               ーあなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。ー

その食卓は   一人ひとりの中にあるんだ、と。                                           ときには いっぱい話したいことがあって、                                       ときには 静かにお茶を飲んだり、                                           顔を伏せて ただ黙ってしまうときも、                                         

しずかに椅子を引く音、腰かける振動や、ただそこにおられる空気を                             感じられたら うれしい。                                       

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