なにごとにも 時 がある

2022年09月27日

“ 神を愛しなさい、隣人を愛しなさい ”

愛されなさい じゃなく、愛しなさい と言われている。                                   と、今日のミサでのお話しの中で言われていました。

「愛する」て、いつも私の中で少しひっかかる言葉。                                       愛するって、愛ってなんなんだろう… と。

でも神さまに愛されていること、どんなふうに愛されているのか、ということを感じられたなら、                           隣人を愛する、ということも解るんじゃないかな、と思った。

少し前にコヘレトの言葉で「何事にも時がある」というのが読まれていましたが、                       「時」って何なのか?と考えていました。                                      時間、とかそういうことでは無いでしょう?

… 自分がしたくてする ことじゃなくて、神さまのとき、                              神さまのはからいということなのかな、と                                           時 = はからい = 神の愛 で、その人へと向かう神さまの想い …?

嬉しかったり、嬉しくなかったり、苦しかったり、ほんとは避けたかったり…                         自分の望んだことじゃない出来事を、                                        神さまからのもの、と受け取ることが 神を愛する ということなのかも。

ということは、隣人を愛するということも解ってくるような気がする。                        その隣人も、神のはからい、神の愛 そのものなんだ、                                 その人をキライでも好きでも、かまわない。

まあ、実行するのは難しいことだと思うけれど、                                    根底に、基?として持っているのって、大事なことだと思うんですよね。

今日のお話しのなかで、デスノート の話しが出てきてちょっとびっくりしましたが(笑)                  自分の願望が中心だと、大事なものが滅んでゆく。と言われていて、                        ふと 昔なにかで聞いた話を思い出したました。                                  ー もし、指パッチンひとつで 人を消せるとしたら、その能力を使うかどうか ー                        なにで聞いたか読んだか全然覚えてないんですけど;                               たぶん  一度でもそれを使ったら、ぜんぶ壊れてしまうだろうな、と思った。                        その人を消すって、これ以上ない 拒否 なのでは… 

イエスが、人となられて すべての時を どう受け止めていらしたのか、                           見つめ続けていけたら、と思います。                                   

 

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