なにごとにも 時 がある
“ 神を愛しなさい、隣人を愛しなさい ”
愛されなさい じゃなく、愛しなさい と言われている。 と、今日のミサでのお話しの中で言われていました。
「愛する」て、いつも私の中で少しひっかかる言葉。 愛するって、愛ってなんなんだろう… と。
でも神さまに愛されていること、どんなふうに愛されているのか、ということを感じられたなら、 隣人を愛する、ということも解るんじゃないかな、と思った。
少し前にコヘレトの言葉で「何事にも時がある」というのが読まれていましたが、 「時」って何なのか?と考えていました。 時間、とかそういうことでは無いでしょう?
… 自分がしたくてする ことじゃなくて、神さまのとき、 神さまのはからいということなのかな、と 時 = はからい = 神の愛 で、その人へと向かう神さまの想い …?
嬉しかったり、嬉しくなかったり、苦しかったり、ほんとは避けたかったり… 自分の望んだことじゃない出来事を、 神さまからのもの、と受け取ることが 神を愛する ということなのかも。
ということは、隣人を愛するということも解ってくるような気がする。 その隣人も、神のはからい、神の愛 そのものなんだ、 その人をキライでも好きでも、かまわない。
まあ、実行するのは難しいことだと思うけれど、 根底に、基?として持っているのって、大事なことだと思うんですよね。
今日のお話しのなかで、デスノート の話しが出てきてちょっとびっくりしましたが(笑) 自分の願望が中心だと、大事なものが滅んでゆく。と言われていて、 ふと 昔なにかで聞いた話を思い出したました。 ー もし、指パッチンひとつで 人を消せるとしたら、その能力を使うかどうか ー なにで聞いたか読んだか全然覚えてないんですけど; たぶん 一度でもそれを使ったら、ぜんぶ壊れてしまうだろうな、と思った。 その人を消すって、これ以上ない 拒否 なのでは…
イエスが、人となられて すべての時を どう受け止めていらしたのか、 見つめ続けていけたら、と思います。