どうしてそうなるのか しらない。
今週の主日の福音マルコ5・26~ 成長する種のたとえ でした。
うちの修道院には畑と言えるほどのものはないですが、 お庭で修練期の頃、少し野菜とかを育てたりしていました。 種を蒔いて育てるなんて、小学校のアサガオ日記以来?
土をスコップでやわらかくして、石とかを取り除いたり 鋤で畝をつくるのを教えてもらったり、とてもおもしろかったなぁ。 土の匂いとか、ね。
それである朝、今まで何もなかった土から、 みどりの芽が いっせいに立ち上がっているのをみたときの嬉しさね! 感動っていうのか、なんか舞い上がっちゃって、 誰彼構わず「見て、みて!」って言いたい気分でした(笑)
でもこれきっと自分が蒔いたから、嬉しいんだろうな、と。 だって言われたほうも、わあすごいね。くらいしか言えないじゃない?
そんなふうに考えながら(前置きが長いでしたが )この聖書の箇所を読んでみたりすると、 この種が芽を出して成長する のを見て、 いちばん喜んでいるのは 誰なんだろうな、と。
「どうして」の理由をただひとり、知っておられる そんなかたが、 それでも、芽を出すのを 成長するのを、 いつも見て、待っておられるのかな…