その目の おがくず
今日の福音 ルカ6・39-45 から、
盲人が盲人の道案内をすることができようか。 2人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。 しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 あなたは、兄弟の目にある おが屑は見えるのに、 なぜ自分の目の中にある丸太に気付かないのか。
ちょっと思ったこと@自分memo
自分が見えない者だと分かっている人が、人の道案内をしようとするだろうか? 弟子は修行して師のようになるとしても、 自分の師が誰か忘れてしまったら、意味があるだろうか?
これ、いちばん言いたいことは何なんだろう 「誰かの目のおが屑を取り除く」ことが出来るようになれってことなんだろうか?
自分の目の丸太を、誰が取り除くことが出来るのだろうか。 自分の目には丸太があって、見えない者なのだと分かるなら、 誰が人の目におが屑がある。と言えるのだろうか。 おが屑ってなんだろう?
(第一朗読シラ書27・4-7 から) ふるいを揺さぶると滓が残るように、 人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。
ふるいに残る滓=欠点 なんとなくおが屑と似たようなものに感じる… そういうことでは無いんだヨ。と言われるかもしれないけれど、 欠点は長所にもなるし、長所は欠点にもなり得る。とはよく聞く話し。
私がその人の中に見た と思う おが屑。それはいったい何ですか? 私の目には丸太があるんだけど、いったい何が見えたんですか