ご聖体の祭日に間に合わずでしたが、、

ご聖体の祭日に、なにか書けたら…と思っていたのですが、出てこず。 みこころの祭日の前に、ちょっとメモしておこうかな、と。
今週の福音朗読で、あなたがたは地の塩、世のひかり の箇所がありましたが、 そのときの神父さまの言葉、 イエス=私たちの塩(霊的な)が印象に残っています。
塩にとっての塩気も、ひかりにとっての光るということも、 それが無いなら、もう そのものじゃない。 じゃあ、人にとっての 私たちにとってのイエズスとは、ご聖体とは何なのだろう。
ー まして、永遠の「霊」によって、 御自身をきずのないものとして 神に献げられたキリストの血は、 わたしたちの良心を死んだ業から清めて、 生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか ー
ご聖体の祭日に読まれた ヘブライ人への手紙の箇所ですが、 読み返しながら、そういえば昔は いのちは血の中にあると思われていたんだっけ…? などと思いながら、、人にはいのちが無くては確かに意味がないけれど、 「いのち」は「生きる」ということに必要な、そういうものなのかな、、
で、も思い出したのが、 ー友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない ー (ヨハネ15・13 )
この言葉、教会の祈りの交唱にもあるのですが、それではこうなっているんです ”友のために いのちをかけて 生きる これより大きな愛はない”
これを読んだとき、ああ こういうことだったのか…!と、 なんていうのか、驚きと嬉しさがあったのを覚えています。 死なないといけないと思っていたけれど、 死ぬっていうのは、いのちをかけて生きることなんだ、と。
何か引用ばかりになってしまってアレなんですけれど;もうひとつだけ、 ちょうど今読んでいる本の中にあった言葉。
ー マザー・テレサが言われる 「死んでいく人にもパンは必要ですが、愛こそが必要です。 あなたに生きてほしい、あなたには生きる価値がある」 という慰めの言葉は、人間が一番聞きたい言葉です。ー
ご聖体は私たちの何なのだろうか? ご聖体にはイエズスのどんな想いがあるのだろうか、 生きるものとなるために、受けとめてゆけたら とそんなふうに思います。