この杯が飲めますか?

2024年07月31日

聖ヤコブ使徒の祝日に読まれた箇所でのイエスのことば

「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。                         わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」                                 (マタイ20・20-28より)


前に読んだヘンリー・ナウエンの本を思い出しました。                               その名も「この杯が飲めますか?」                                        

ナウエンは、これを聞いたときに                                          これは私たち一人ひとりが答えなければならない問いかけだ                                と悟った、と書いています。

そのなかで私がとても考えさせられた言葉がありました。

” 飲む”ということは、たまたまそこにあるものを                                    一気に飲むことではないのです。                                          パンを裂くことは、単にパンを裂くだけのことではないように。                           命の杯を飲むということは、それを手に取り、                                    持ち上げてから 飲む のだということを意味するのです。

人間性そのものを、余すところなく捧げ、祝福することなのです。                           イエスがしたように、私たちも、                                       自分の命を手に取り、高く上げ、人に示し、飲むことができるでしょうか?


くりかえし読みながら、思ったことは                                      ミサと私たちの生活のこと。                                             私たちは、ミサを中心とした生活 と言うけれど、                                   それがどういうことなのか、ということ。

ミサで御血、ご聖体をいただくことが                                       ただ独立して、離れてあることじゃない。                                    そこに近づいて、手に取って、見て、触れて、、                                 そこへと繋がっていくから、中心なんだ と。


本にはもっといろんなことが書いてあるので                                  また もし機会があれば読んでみてください~

                                

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