この杯が飲めますか?
聖ヤコブ使徒の祝日に読まれた箇所でのイエスのことば
「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。 わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」 (マタイ20・20-28より)
前に読んだヘンリー・ナウエンの本を思い出しました。 その名も「この杯が飲めますか?」
ナウエンは、これを聞いたときに これは私たち一人ひとりが答えなければならない問いかけだ と悟った、と書いています。
そのなかで私がとても考えさせられた言葉がありました。
” 飲む”ということは、たまたまそこにあるものを 一気に飲むことではないのです。 パンを裂くことは、単にパンを裂くだけのことではないように。 命の杯を飲むということは、それを手に取り、 持ち上げてから 飲む のだということを意味するのです。
人間性そのものを、余すところなく捧げ、祝福することなのです。 イエスがしたように、私たちも、 自分の命を手に取り、高く上げ、人に示し、飲むことができるでしょうか?
くりかえし読みながら、思ったことは ミサと私たちの生活のこと。 私たちは、ミサを中心とした生活 と言うけれど、 それがどういうことなのか、ということ。
ミサで御血、ご聖体をいただくことが ただ独立して、離れてあることじゃない。 そこに近づいて、手に取って、見て、触れて、、 そこへと繋がっていくから、中心なんだ と。
本にはもっといろんなことが書いてあるので また もし機会があれば読んでみてください~