いったい何だろう、この言葉は
最後に戻ってきた夏の 青い空と陽ざしのなかで、 ミンミン蝉が力強く鳴いています。 そういえば昔はこの辺カエルが鳴いていたのに、聞こえなくなったのはいつからだったか… カエルって言って、ケロケロかわいいアマガエルとかじゃないですよ、 ひっくい重低音のウシガエルさん(たぶん)でした。
この夏、食堂の読書で永井博士の「長崎の歌」(パウロ・グリン著)が読まれています。 長崎の原発や、その後の人々の描写とか出てくるところになると、本当に……、、 それをまた、ただ読むのではなくて声に出して朗読する、 または読まれているのを聞く、というのは違いますね。 なにか こうゾワリと逆立つような、そんな感覚があります。
ぜんぜん違うのかもしれませんが、 今日の福音で、イエスが悪霊を追い出したのを見た人々の言った言葉、 「この言葉はいったい何だろう。」 を思い出しました。 イエスの言葉を聞き、起こったことを目の当たりにした人々は なにを感じたのだろうか?
少し前に『ピース9』の8月のしおり?が届いていて、 そのなかに こんな言葉がありました。
今、コロナ渦にあっては現地に行くことも、平和について語り合うことも難しいということで、 あらゆることが止まってしまっているのではないかと心配します。 平和は「動詞」であって「名詞」ではないからです。 自由や平和実現への努力や取り組みが止まると、 その瞬間、自由は失われる方向へ動き出し、平和も失われていくのです。 自由や平和は常に実現するように働きかけ続けないといけないのです。
戦争の記憶とか、あったことを伝える文章や、いろいろなものは 私たちに働きかける力を、その中に秘めているのかもしれない。