あなたとともに食事を
キリストの聖体の祭日にて、 どうして今日の福音は最後の晩餐の箇所じゃないんだろう? と、ふと思った。 ご聖体の制定の、そのままの箇所なのに…
なぜこの ルカ9・10-17(五千人に食べ物を与える)なのか。 くり返し読んで見ながら、何を伝えたいのか と思う。 最後の晩餐の箇所と違うところはなんだろう。
〈晩餐〉そこにいるのはイエスと 使徒たち、弟子たちとの食卓 〈今日の〉最初はイエスと使徒たちだけになろうとしてた。 けれど、その後を追ってくる群衆…男だけで5千人だ、大群衆だ。
イエスはその人たちを迎えた。 語りかけ、必要ないやしを与えていた。 日が傾いてきたとき、イエスは最も根本的に必要なものを 与えるよう、使徒たちに言う。食べる物が必要だ。
この時の使徒たちの言葉は、最高にリアルだと思う。 自分たちの食べる分しかありません。 「…私たちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 こう、言葉の裏に 表面張力いっぱいいっぱいで保っているような、 そんな感じが好きです (笑)
聖人と暮らすのは大変だ。とよく言うけれど その最たる というか神さまと暮らしていたんだもの。 自分の今まで培ってきたもの、常識、考え方、 イエスの言われること、行うこと、との間でそりゃ苦労したに違いない…
けれど、その後に起こることは そんな自分のぐちゃぐちゃになった思考なんか、吹き飛ばされてしまうのかも。
イエスが弟子たちに配らせたパンは、ぴったり行き渡った。じゃない。 余った、12かごも! 12かごも余ったそのパンは、使徒たち・弟子たちだけでなく、 追ってきた大群衆のためだけでもなく、 そこにいない、すべての人を招いているように感じます。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の最後の晩餐の箇所をみると、 ちょっとよく分からないイエスの言葉がある。 代表(?)してマタイから、
『わたしの父の国で あなたがたと共に新たに飲むその日まで、 今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』
イスラエルの過越しの祭りの食事では、 食事の最初と最後にぶどう酒を飲む、とどこかで聞いたような…
その日が来て、すべての人と食事を始めるのをイエスは待っている。 そんなことを思ったのでした。