「放蕩息子のたとえ」について

2025年04月01日

「教皇フランシスコ  キリストとともに燃えて」                                   著オースティン・アイヴァリー                                          最近ずっと食堂で読まれている本です。                                     そのなかで、まだ枢機卿時代の黙想での言葉がありました。


…たとえば、アダムとエバの楽園追放について、                                 ある黙想では放蕩息子のたとえ話にそれをなぞらえ、                               詩に近いものにまで到達させている。

家から遠く離れて さまよい歩いているときでも、                                 その子は父の家にいた頃の                                             心をかき乱す記憶を身体の芯に感じていた。                                   流れ者ではあっても、その子は方向を感じとる才能に恵まれ、                           その才能に従い、本当の自分に再び出会おうと捜し求めていた。                          彼は問いかける場所を見つけ、                                         向かうべき方向へと歩みを変えようとしていた。                                 心の中にある導きの星がどこから来たのか、                                     またどこに自分を導こうとしているのかは わからなかったが、                            その大切さはわかった。つまり、彼は祈ったのだ。                                家に戻れるよう祈ったのだ。                                          すべての肉なる者は自身の行く道に従う。                                    生きていることの意味が ぴったりと嵌るのは                                  まさに祈りの中だけなのだ。                                          われわれの心が「どこから」来ているのか、                                   それが「どこへ」向かって進んでいるのか、                                        そして、今どこに立っているのかが はっきりとわかるのは                            祈りの中だけなのだ。


この有名なたとえ話で 一番取り上げられるのは                                    お父さん、御父の愛情深さ、寛大さとかでしょうか。                                 対してこの放蕩息子、弟で言われることは、                                    父の所に帰ろうとした理由、本当の回心なのか、とか                                 最後の「召使いにして下さい」は言っていない、とか

確かにそうだし、今までもそういうふうに                                   考えたり、黙想したり、良かったと思っています。                                   でもこの四旬節、つい最近このたとえ話があったとき、                                 なにかもっと、なんていうのか…                                        “こっち側”  になにか、無いのだろうか。と思っていて                                  そのこたえ、ではないかもしれないけれど                                      受け取れたような気がしました。


家畜の飼料を食べたいと思うほどの 飢え、渇き、                                 絶望がどんなものだったか、                                            お父さんが生きているうちに形見分けをさせて                                     自分から全ての縁を切って出てきたのに、                                      帰ることができるだろうか、                                          受け入れられるだろうか、                                              食べる物もなにもない状態で、                                           遠い故郷へ旅することができるだろうか、                                     辿り着けるだろうか、

そこで生きることは出来ないと わかっていても                                   そこを発つことの難しさを、知らない人はいないんじゃないかな。

でもこの弟は、出発したんだ。と                                        その旅がどんなものだったのか、                                            思い巡らしてみたい。                                  

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